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里山エッセイ



北斎の風景

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                                  『富嶽三十六景』
 
 
絵師、葛飾北斎は立ち止まらぬ人であった。
生涯に三万点とも十万点ともいわれる作品を発表しつづけた。
また、作風を変えるにあたって名前を改号すること30回、
家の引越しは何と93回に及び、一日に3回引っ越したこともあるという。
 
 
美人画や風景画などの浮世絵はもとより、
黄表紙、洒落本の挿絵や絵本、天井画など多くのジャンルに腕を振るっている。
 
その中でも代表作は、民衆の表情をユーモラスに描きとめた『北斎漫画』、
そして富士山の姿を様々な構図で描いた『冨獄三十六景』であろう。
 
 
このゴールデンウィークに中央自動車道を走っていて見た富士山は見事であった。
快晴の日の夕暮れどき、
裏富士と呼ばれる甲府側からの富士山は、夕陽をあびて輝いていた。
八合目から上には雪が残り、下に連なる山々は新緑に染まっている。
何度もこの道を通っているが、こんなに美しい富士山は初めてであった。
 
現代と異なり、自動車や飛行機のなかった江戸時代に、
富士山をあらゆる角度から描いた北斎のエネルギーと情熱に
思いをはせたのであった。
 
 
北斎の風景画の特徴は、
そのほとんどに当時の庶民の生活がていねいに描かれていることである。
 
例えば、『冨獄三十六景』のうちの「甲州石班澤」では漁をする父子、
「尾州不二見原」では桶造りの職人、
そして「遠江山中」では大木をのこぎりで切る
木挽(こびき)職人の姿が描かれている。
 
今は失われてしまった江戸時代の風景と生活がそこには描き印されているのである。
 
 
北斎の若きライバル広重が、
代表作『東海道五十三次』で風景の添景として人を描いていて、
そのほとんどが向こうを向いているかうつむき加減であるのと対照的である。
 
北斎の絵では富士と人が対等であった。
人の生活があり、その背景として富士山があった。
 
そして、そのふたつをダイナミックに結びつける、
北斎の絵師としての天才的な構成力があった。
それらのどれを欠いても、北斎の風景画とはならなかったであろう。
 
159年前の今日、5月10日に北斎は亡くなった。90歳であった。
 
「もう10年、いや5年でもいい、生きられたら本当の絵を描くことができるのに・・・」
画狂老人、北斎は最後まで前を見つづけていた。
 
 
 
建築家 野口政司   2008年 5月10日(土) 徳島新聞夕刊 「ぞめき」より


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