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里山エッセイ



8月に書く

戦争は嫌だ。戦争をしてはいけない。
父が亡くなって15年、今母を送ろうとしている。
徳島の8月はぞめきの夏、待ちに待った阿波踊りが訪れるが、
黒い雨の降った灼熱地獄と、地獄の果てに迎えた終戦が8月であるがゆえに、
父と母のたどった人生も多くの人に通じるものとして、書いておきたいと思う。


昭和12年12月雪明りの信州に父と母は二人だけの結婚式をあげた。
学者を志していた父は、戦時下それは適わぬ夢となり、
仙台から長野に移り教職についていた。
昭和13年9月15日、応召の通知は突然に来た。召集令状は何人も拒む事は出来ない。
身重の母を残し慌しく父は出征した。
石垣の上から泣き崩れて見送ったという若い母の心中が悲しい。
 
10月私は生まれ、以来足掛け8年間父は帰らなかった。
その間愛媛へ仙台へ長野へと転々としつつ、母は苦労に苦労を重ねて私を育てた。
昭和20年8月15日終戦、秋10月のある日、突然何の知らせもなく、
浮浪者のような姿で父は帰った、帰らぬ父が幾多と聞けば帰還は幸いというほかはない。
本土から南方戦線へ、暗号兵として転々とした挙句、
原爆投下の前日8月5日に宇品に帰還、即日移動、
終戦直前には種子島で、部隊全員が自爆するために墓穴を掘っていたという。
生前には決してこれらのことを語らなかったが、
残された軍隊手帳や、日記や、自伝の原稿から父の体験を知った。

終戦後兄妹は4人となり、極度の食糧難の時代に母の苦労は計り知れない。
大正4年から95年、20世紀から21世紀へと二つの世紀を生きてきた人の頸さ、
大正デモクラシ-の風靡する時代に青春時代を過ごし、通訳として英語に堪能、
「人生に悔いなし、私の人生はワンダフルライフだったよ」と言い切る。
父は教職の場から多くの人を世に送り出したが、母もまたたくさんの人を育てた。
あからさまに「戦争反対!」と唱えたわけではないけれど、
人が人として幸せに暮らせる生き方を示し続けてきた。

これを書きながら、次の言葉が鋭く私の胸を打つ。
「戦争とは、はたして<異常>なできごとなのだろうか?
私たちのこの<平和>な<日常>が、そのままのっぺらぼうに、
戦争に通じているのではないだろうか?
(彦坂諦著 「ひとはどのようにして兵となるのか」) 
今年の8月は選挙の月でもある。次代のことを真剣に考え、核兵器を廃絶し、
戦争をしてはならない、という人たちに政権を託したい。

里山の風景をつくる会 理事 
地球温暖化を考える-市民アクション2009-徳島代表  八木正江
2009年 8月 10日(月) 徳島新聞夕刊 「ぞめき」より


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