ヘッダーをスキップ

ヘッダーエリア


コンテンツエリア

里山エッセイ



五月のそよ風を・・・

column137.jpg

 
 
詩人の立原道造の最後の言葉は、
「五月のそよ風をゼリーにしてもってきてください」であったという。
風の詩人、立原道造らしい逸話である。
 
 
五月の風をおねだりした道造であったが、
かなわず昭和14年3月29日、24歳の若さで亡くなっている。

 
 
立原道造は、詩人であるとともに建築家でもあった。
東京帝大建築学科では丹下健三の1年先輩である。
3年生のときにこんな随筆を書いている。
 
 
「いま、『人生(ダス・ベーレン)』をひとつの中空のボールとして考へよう。
そのボールに就て、エッセイと住宅は次のように触れ合ってゐると考へられはしないか。
住宅する精神は、ボールの表面を包み、
エッセイする精神は、中空のボールの内部の凹状空間の表面を包まうとする、と。」
                                        (「住宅・エッセイ」)
 
 
そして住宅設計の名手であり歌人でもあった堀口捨己の
「烏口の穂先に思ひひそめては磨ぐ日静かに雪は降りけり」という短歌を取り上げ、
室生犀星自身が計画し建てた随筆そのままの味わいの犀星の別荘のことが紹介されている。
 
 
丹下健三が国家プロジェクトなどの大建築を手がけたのに比べ、
立原道造は住宅建築家であった。
自身の週末ハウスであるヒアシンスハウス(風信子荘)では、
50以上の計画案が残されている。
その未完に終わったヒアシンスハウスを完成させようと有志が集まり、
道造が望んださいたま市の別所沼公園の中に、
60余年の時を経て平成16年春に竣工している。
5坪に満たない小さな家であるが、立原道造が思い描いた夢がかたちになっている。
 
 
「僕は窓がひとつ欲しい。あまり大きくしてはいけない。
そして外に鎧戸、うちにはレースのカーテンを持ってなくてはいけない。
ガラスは美しい磨きで外の景色がすこしでも歪んではいけない・・・」
                       (立原道造「鉛筆・ネクタイ・窓」)
 
 
わずか床面積14.32㎡(4.3坪)の中に小宇宙を構想することのできた建築家立原道造を、
今あらためて思い起こすべきではないだろうか、と私は思うのである。
 

 
さて6年間にわたって書かせていただいた「ぞめき」のエッセイも今日が最後です。
本業である住宅などの設計をしながら、
このコラムにもその時その時の思いをつづらせていただいた。
「五月のそよ風」には及ばないかもしれないけれども、
何らかのいみじさ、懐かしさを感じていただけたなら、これ以上の喜びはありません。
 


ありがとう 吉野川みんなの会

 
 
NPO法人吉野川みんなの会の最後の総会に出席した。
白熱した議論が展開して様々の思いが交錯した。
解散と知った瞬間には余りの唐突さに愕然とし、
多くの市民活動を生んだ親がかわいいわが子を見捨てるような、無責任な・・・
と激しく抵抗したが、今は、これが最善の選択だったと思えるようになっている。

いつもは忘れているけれど、ふと気づいたら、いつも自分たちのそばにいて、
自分たちを駆り立てる指針搭でもあった吉野川みんなの会。
始まりの理由がきっきりしていた。「住民投票の民意を実現させよう!」と。
そして終りの理由がはっきりしていた。「可動堰は中止となり民意は実現した」と。
吉野川みんなの会は国をも動かした。
だから当然の成り行きだったと思う。
 
 
 
今日まで吉野川みんなの会が果たした社会的意義は計り知れない。
 一つ、可動堰に代わる住民案をつくる
 一つ、吉野川と子どもをつなぐ
 一つ、吉野川の流域圏をつなぐ
 
これらの目的の下に第十堰保全と緑のダム構想を含む代替案がまとめられた。
400人にも及ぶ川ガキたちが全国に巣立ち、川と人とのつながりを取り戻した。
若者がお堰の家に集い、学校と結んだ環境教育も育ちつつある。
流域単位で川づくりをするNPO等多様な活動も生まれた。
シンポジウム、勉強会、川遊び、自然教室、数々の意見書、
河川整備計画への強い要請、途絶えることなく活動が展開され、
あの時、この時、あの人、この人が走馬灯のように駈け回る。
 
 
 
紹介された幾つかの動きから、もうそこに新しい風が吹きはじめている事を知る。
岩屋隆夫(水利水調査会主宰)、立石恵嗣(元県立文書館長)のお2人を迎えて、
6月6日にシンポジウム「吉野川の治水史を探る」
-吉野川に明治近代化がやってきた-が開かれる。
10年目の123を受けて加藤登紀子コンサ-トが10月4日に決まった。
若者の川遊び部が動いている。程なく吉野川流域元気基金(仮)も設立される。
 
 
吉野川が100年、200年、1000年の時を流れ続けるように、
活動もまた生き続ける。
見据えるべきは1000年の先、馳せるべき夢は未来の吉野川。
 
 
吉野川はみんなのもの。
 
万感の思いを込めて ありがとう 吉野川みんなの会。
 
 
 
 
 
 
里山の風景をつくる会 理事 
地球温暖化を考える-市民アクション2010-徳島代表  八木正江
2010年 5月 26日(水) 徳島新聞夕刊 「ぞめき」より


内ゲバの論理をこえて

内ゲバの論理.jpg
 
 
 
ゴールデンウィークが終わって、京大のキャンパスに戻った私の耳に、
痛々しい悲鳴にも似た言葉が飛びこんできた。
友人の女子学生のその言葉を、今でも私は覚えている。
 
「カズミさんが亡くなった・・・」
 
カズミさんとは、元京大文学部助教授で作家でもあった高橋和巳のことである。

 
1971年の5月3日、高橋和巳は結腸ガンで亡くなった。39歳であった。
本人は最後まで死の病であることを知らされていなかった。
あれほどまでに意識的な作家であった和巳が、
「邪宗門」で主人公千葉潔の壮絶な死を描いた高橋和巳が、
自らの死を自覚しないまま死ぬとは。
復讐とも思える妻、高橋たか子の仕打ちを私は憎んだのであった。
 
高橋和巳の死は、もう一つの知人の死と記憶の中で重なっている。
高校の一年後輩である四宮俊治君のことである。
四宮君は1974年1月24日の白昼、東大の友人の引越しを手伝っていて、
襲ってきたグループに鉄パイプで殴り殺された。
 
革マル派シンパであった友人が、
身の危険を感じて引越しをしている最中での悲劇であった。
「中核派による東大生内ゲバ殺人事件」と、
翌25日の徳島新聞でも大きく報ぜられた。
狙われた本人はとっさに逃れて無事、と書きそえてあった。
 
四宮君のお父さんが雑誌「辺境」へ寄せた文「何という無意味な死」を、
私は涙なしでは読むことができなかった。
 
その年の秋、三一書房から「内ゲバの論理」という本が出された。
埴谷雄高編のその本には、
高橋和巳の「内ゲバの論理はこえられるか」や
埴谷自身の「目的は手段を浄化しうるか」、
そして鶴見俊輔の「リンチの思想」などが載せられている。
 
四宮君の内ゲバによる死がこの本を出させたのではと思う。
その頃京大でも、建築学科の同級生が寝込みを襲われ、顔面陥没骨折、
そして女子学生が素っ裸で校門前の木に縛り付けられたり、
というのが日常であった。
 
高橋和巳の残した次の文章が、
このような時代をなんとか前に向かって歩いていくときの私の精神的な杖となり、
磁石ともなったのである。
 
「苦しい変革過程の運動形態のなかに孕(はら)まれていなかったいかなるものも、
権力奪取後に不意に姿をあらわすことはない。
権力奪取後に、自由が制限されるなら、
それは運動形態自体のなかにすでに自由はなかったのである。」
(「内ゲバの論理はこえられるか」『わが解体』より)
 
 
 
 
建築家 野口政司   2010年 5月 15日(土) 徳島新聞夕刊 「ぞめき」より


続・信濃の国

 
実は、である。前回の信州賛歌に反論が。
「故郷とはそういうものであるらしい」と書いたら、そういうものとはどういうもの?と。
良く見えている部分だけを心情的に書いても事実が伝わらない、と。
確かに。故郷には心痛む事柄もたくさんある。

 
 
その一つ。
田中康夫前長野県知事が就任してすぐ発表した「脱ダム宣言」により、
淺川ダムもその対象となった。
淺川は小学校の裏を流れていた川だ! 一挙に時がタイムスリップした。
毎日川原に下りて遊んだ川、小さな手のひらにきらきら輝いていた宝物の石ころ。
魔法使いになったような気分まで蘇る。
レンゲ畑が続く風景と、桜咲く校庭と、古い木造の校舎と、
走り回った長い廊下も目に浮かんだ。
 
いつ頃からだろう、
帰省して見る淺川は三面張りのコンクリ-トでがちがちに固められていた。
両岸は自然の石垣風に工夫されているが、
逆にそれが人工物であることを意識させてしまう。
「暴れ天井川」の別名をもつ淺川だから特に下流域は度々の洪水に悩まされ、
流量確保のために川底を深くしたと言うのだがもう下りるどころではなく、
川のたたずまいはよそよそしい。
 
淺川は源流を飯綱山に発し
長野市北部を流れて千曲川に合流する全長17キロの中小河川。
山腹は昔から有数の地すべり地帯でダム建設は危険と専門家。
 
そして洪水の原因は内水災害でありダム建設では解決しないとも言われている。
「・・・縦しんば、河川改修費用がダム建設よりも多額になろうとも、
100年、200年先の我々の子孫にのこす資産としての
河川・湖沼の価値を重視したい・・・」(「脱ダム宣言」より)、
公共事業のあり方に嚆矢(こうし)を放った名宣言だったが・・・。
 
 
新聞報道によれば、くすぶり続けたこのダム計画、
知事の交替と同時に「脱・脱ダム宣言」とかでまたまた復活、
とうとう今年3月県議会はダム予算を通過させ、即座に知事は工事を発注したという。
 
どんなにすばらしい宣言でも”トップが変われば“豹変”の憂き目は、
わが徳島でも経験済み、淺川の話はとても他人事とは思えない。
 
他山の石はどこにもごろごろ。
正論を確実に実現させるにはどうしたらいい?
 
 
 
 
 
 
里山の風景をつくる会 理事 
地球温暖化を考える-市民アクション2010-徳島代表  八木正江
2010年 5月 11日(火) 徳島新聞夕刊 「ぞめき」より


▲ページのトップへ戻る


サイドナビゲーションエリア

SATOYAMA SNS 里山を語るコミュニティ

ログインe-mailアドレス、パスワードを入力

カテゴリー

バックナンバー

最近の記事

最近のトラックバック

RSS 2.0 ATOM 0.3

お問い合わせ

NPO法人 里山の風景をつくる会
〒770-8055
徳島市山城町東浜傍示28-53
TEL:088-655-1616
FAX:088-655-1632
E-mailinfo@enjoy-satoyama.jp

▲ページのトップに戻る


フッターエリア


Copyright©2006 Meeting that makes scenery of hometown mountain.All Rights reserved.